◎障害のあるなしで区別するのではなく、誰もが違いを認め合える社会へ
[問い合わせ]障害福祉課（電話番号042・514・8991）

今回お話を伺った人
藤田博文（ふじたひろふみ）氏
NPO法人自立生活センター日野
事務局長、日野市障害者差別解消支援地域協議会会長
ご自身も肢体障害の当事者

市では、令和2年4月から「日野市障害者差別解消推進条例」をスタートし、令和7年4月には条例を改正しました。
本条例では、
障害のあるなしにかかわらず誰もが互いに人格と個性を尊重し共生する社会「ともに生きるまち日野」の実現を目指しています。
「ともに生きるまち日野」をより身近なものとして皆さまに考えていただくため、
今回は日野市障害者差別解消支援地域協議会の会長であり、ご自身も肢体障害の当事者である藤田さんにお話を伺いました。

Q．普段の生活で車いすを使用していて困ったことなどはありますか
A．駐車場については、どこへ行くにも関わってくるので、苦労することが多いですね。
車いす用の駐車場は、数が少ない上に、すぐに埋まってしまうので、まるで争奪戦のような状態になってしまうんです。
それに、本来の用途ではない方が利用されているのを見かけることもあって…。
いざ使おうと思っても、使えないことが本当に多いです。
私自身、車いすユーザーであり、自分で運転するのですが、
車いすから車への乗り降りの際には、運転席のドアを全開にする必要があるのです。
そのため、どうしても横に広いスペースが必要になります。
広い駐車場は誰にとっても便利ですが、「ここしか使えない人」もいるということを、
少しでも理解してもらえたら嬉しいなと思います。
そうすることで、本当に必要な人が利用できる駐車場が増えていってほしいと思っています。

Q．昨年の4月に市の差別解消推進条例が改正されましたが、それについて感じていることを教えてください
A．改正によって、インクルーシブ社会の定義が追加されたことが、大きな前進だったと感じています。
市民の誰もが自分らしく、違いを認め合って平等に参加できる社会の実現を掲げたことは、
例えば、障害のあるお子さまたちが兄弟や友達と同じ学校に通いやすくなる、といった教育の分野においても
大きな影響を与えると思っています。
また、昨年11月に差別解消推進条例についての講演会を開催したのですが、
講師の先生に、「日野市の条例はかなり先進的」と褒めていただいたことも、
条例の制定に携わっていた身としてはかなり嬉しかったですね。

Q．「ともに生きるまち日野」とはどういうまちだと思いますか
A．「ともに生きるまち」というと、
「障害のある人たち」「障害のない人たち」と区分けされた状態でともに生きていくもの、というイメージを持たれがちですが、
そうではなくて、障害があるとかないとかで線引きするのではなく、
誰もがそれぞれ少しずつ違いのある人として、お互いの違いを認め合って、
いい意味であまり気を遣わずに同じ地域の中で暮らすことができる、そんなまちであってほしいなと思います。

Q．市民の皆さまに伝えたいことを教えてください
A．私たちにとって、無関心でいられることが、一番怖いことなんです。
障害があると遠慮がちになったりして、
本当は助けてほしいことがたくさんあっても、「助けて」と言うのにものすごく勇気が必要になるんですね。
なので、少しでも関心を持っていただいて「何かお手伝いすることはありますか」と声をかけていただけると嬉しいなと思います。
そうしたところから皆さまとの関係を築いていきたいと思っています。

いかがでしたでしょうか。
今年度は全3回にわたり、耳がきこえない方・目がみえない方など、さまざまな障害当事者の方にインタビューを行い、
日々の暮らしで感じていることや「ともに生きるまち日野」についてのお話を伺ってきました。
このコラムをきっかけに、地域で暮らす障害当事者について少しでも関心を持っていただき、
誰もが暮らしやすいまちづくり・理想の共生社会の在り方について考える機会にしていただけると幸いです。



◎みんなのふるさとこぼれ話92虚労散薬（きょろうさんやく）
ID：1030124
[問い合わせ]郷土資料館（電話番号042・592・0981）
日野本郷の下の名主、佐藤彦右衛門の家では「虚労散」という薬を代々製造販売していました。
この薬は労咳（肺結核）=肺病や肋膜炎に効能があり、新選組の沖田総司も服用したと伝えられる家伝薬です。
この薬は、押立村（府中市）の川崎家から佐藤家へ嫁いだ女性によって製法を伝えられたという薬で、
昭和10年代にはまだ製造販売されていました。
押立村の川崎家とは、幕府代官の川崎平右衛門定孝を出した家で、
佐藤俊興の父彦右衛門高富は定孝の甥に当たります（俊興の祖父平左衛門実富の妹が定孝に嫁ぐ）。
川崎家でも同じような丸薬の家伝薬を製造販売していて、こちらは日野の佐藤家から教わったと伝えられているそうです。
文化6（1809）年に多摩川巡見で佐藤家に泊まった大田南畝は、彦右衛門とすっかり意気投合し、
その後も家族ぐるみで親しく付き合っていました。
大田南畝から佐藤彦右衛門宛てに出された手紙が残されています。
手紙は、23歳になる労症気味の娘のために日野宿の薬を求めたいという人がそちらへ行くのでよろしく頼む、と書かれています。
「戌年卯月」、「江戸するが台大田直次郎」とあるので、
南畝が駿河台の屋敷に住んでいた戌年、つまり文化11（1814）年4月のことです。
この手紙の尚々書き（追伸）には、
彦右衛門が先日南畝の家を訪れたことや、いつも早々と帰ってしまうこと、御家内様へもよろしくなどの文言があり、
彦右衛門と南畝が親しく交際していたことがうかがえます。
ただし、この手紙の彦右衛門は俊興ではなく（俊興は文化8年没）、
文化6年当時はまだ「庫太」と名乗っていた彦右衛門俊亮を指します。
また、日野宿の上の名主家でも薬の販売をしていたようです。
薬の広告などを刷るための版木が複数あったことが分かっており、
古くて汚い版木はおくど（かまど）へくべて燃やしてしまったといいますが、どんな内容だったのかとても興味深いです。